文化的素養に対するコンプレックスの話

 こんばんは、ぷりこです。先週の日記があまりに中身のないものだったのでその分をここで補完したいと思います。

 今日はタイトル通りコンプレックスの話をします。皆さんはコンプレックスありますか?おそらく大なり小なりあるんじゃないかなと思います。ぼくも例外に漏れず生まれて20年と少しめちゃめちゃコンプレックスに塗れた人生を送ってきたわけですが、無数に抱えるコンプレックスの中でも一際重くのしかかっているのが文化的素養に対するコンプレックスです。

 文化的素養というとなんかふわっとしたイメージでしかないですが、ここでは知的好奇心の旺盛さであったり高次の精神活動(芸術とか音楽とか)を解する知識と感受性といったものを指すことにします。ぼくはそういったものに強い憧れを持つ一方でめんどくせえしゃらくせえみたいな相反する感情も同時に持ち合わせていて、その歪な構造がぼくのコンプレックスの源なわけです。以前アニメが見られないという趣旨の話をしましたがそれに通ずる部分もありますね。

 じゃあ文化的素養のある人とぼくでは何が違うのかという話なんですが、ぼくは快楽を受け取る回路の複雑さなんじゃないかと思います。人間が主体的に(精神)活動するときって大体の場合何らかの快楽を求めることが目的ですよね。ただ高次の活動になればなるほどその快楽を得るまでのプロセスが複雑になっていると感じます。

 例えば最も根源的な欲求である食欲に関して言えば、食べ物を味わった瞬間おそらく扁桃体のどこかしらが刺激されて直接快楽を得ます。しかし、創作の鑑賞であれば間に解釈というプロセスを挟みますし、まして創作そのものをする場合などは世界の解釈、再構成、アウトプットといった非常に複雑な手順を経るわけです。これはエビデンスが全く無い持論ですが(脳科学のことは何も知らないので)脳の快・不快を司る扁桃体に刺激がいくまでに大脳新皮質を経由するほど高次の活動であると考えています。

 とにかくぼくはその複雑さに憧れていて、しかしながら自分ではもっと単純で直接的な快楽を求めてしまう、そういったギャップはとても辛いものでした。これは先天的なものか後天的なものかはわかりませんが生まれ育った環境も大きな要因のひとつかもしれません。

 ぼくが文化的素養のなさを自覚したのは高校の頃です。当時通学していた高校は県下トップの進学校であり、所謂お育ちの良い生徒が多くいました。あまりにも卑近な例ですがクラシックを聞いたら曲名がすっと出てくるとか、何か食べるにしてもグレードによる味の違いがわかるとか。一見くだらないように思えますがこういった日常の端々に滲み出る文化的素養、あるいは教養と言い換えてもいいかもしれませんが、とにかくそういったものにぼくは羨望の眼差しを向けていました。現在も彼らのアウトプット(例えTwitterであっても!)を見ますが文化的素養に裏打ちされたものほど面白いと感じます。

 一方、ぼくが中学まで属していた世界はもっと世俗的で単純でした。もちろんこれは中学生と高校生という構成員の精神的成熟度合いによる面もあるでしょう。事実、ぼくはこれが大きいと考えていました。しかし、先日成人式に参加した際にどうやらそうとも言い切れないようだと気づいたのです。彼らの会話は(ぼくも含めて)酷いものでした。記憶にあるのはギャンブルと風俗ととてもここに書けないような低俗なゴシップです。それもアルコールのせいだとかではなく日常的に交わされているような会話がです。ただ、ぼくはこれらを低級だと断じることはできません。その時ぼくも「こちら側」の人間なんだと痛感したからです。

 とはいえ、特にぼくが育ちが悪かったとか地域が荒れていたとかではありません。ぼくの家庭は中流、もしかしたら中の上程度の家庭ですし同級生も似たようなものです。バカにするとかではなく世の中のほとんどの人は「こちら側」なのでしょう。

 ここまで長々と話してきましたが最後に、ぼくはどのようにこのコンプレックスと付き合ってきたかという話をしたいと思います。

 高校が先述したような環境であり、またぼくが属していたオタク(狭義)コミュニティは文化的素養のある人が多かったためどうしてもその輪に入りたかったぼくは背伸びをしました。わかった風なことを言い解釈の真似事をして最悪の自己プロデュースに勤しみました。ぼくは自分の文章をすごく気取っていると分析しているのですがそれもこの時の影響ですね。ちなみにもう完全に染み付いているので変えられません。

 はじめのうちは比較的これでやっていけていたような気がするのですが(認知バイアスかも)、大学生になり流石に色々厳しくなってきました。背伸びしていただけで足場を積み上げていたわけでも身長が伸びたわけでもないので当然なのですがどんどんおいていかれます。高等教育機関である大学にいていい人間ではないなというのを日々感じながら過ごすのはなかなか気が滅入りますね。特にレポート提出の際なんかは先述したような高慢ちきな文章を文化的素養の権化みたいな教授に送りつけざるを得ず、ぼくの背伸びが看破されるのを見るのはなんともいたたまれない気持ちになります。

 というわけで現在進行中のお悩みでした。といっても深く思い悩んでいるというわけでもないのでしばらくは気取った感じが続くんじゃないかなと思います。ちなみにこういう人をスノッブと言うそうです。ちょっと響きが可愛いので使っていきたいですね。それではまた次回。