キラッとプリ☆チャン シーズン1 感想
ようやくプリチャン1期を完走したので今日はその感想です。
はじめに
正直なところとても難しいアニメでした。というのもシーズンを通してダイナミックな長編が展開されるわけではないので表面を追っているだけでは退屈になりかねないんですよね。もちろん個々のお話は一話一話完結していますがそれらが紡いだ先に何か大きな景色があるわけではないのです。
では、退屈なだけの駄作かと言われればそれもまた違います。なぜならこの作品はダイナミズムと引き換えに徹底的なリアリズムを見せてくれたからです。第1クール終了時の池畠監督のインタビュー記事に「地に足のついた」物語を作ってほしいという要請があった旨の記述があります。これは単にファンタジー色の強かったプリパラとの差別化という意味が大きかったと推察しますが、結果的に「地に足のついた」というワードはプリチャン1期を表現するのにうってつけの言葉になったと感じました。
プリチャンのリアリズム
プリチャン1期のリアリズムとはなんなのか。これは人間を真摯に写実的に描いていることに他なりません。作中の51話はそのほとんどが所謂日常回に費やされています。日常というのはキャラクターの相互関係の顕在化です。この日常を丁寧に、繊細に描いている点がプリチャンのリアリズムなのです。桃山みらい、萌黄えも間をはじめとするキャラクターの距離感の生々しさがその一例です。
その中でもプリティーシリーズではお決まりの相互不理解にまつわるエピソードはその点が強く出ていたと感じます。それが顕著だったのは紫藤めるの登場以後でしょう。彼女は海外帰りの不世出の天才という他のキャラクターから隔絶された存在として描かれていますが、当然その隔絶は相互不理解を生みます。第24話『星の願いをかなえてみた!』や第40話『さららの家に泊ってみた!』といった相互不理解をメインに据えたエピソードはもとより、第51話『キラッとお別れ、やってみた』ではキラッツからのプレゼントを即座に開封するなど些細な部分まで相互不理解が描写されていました。ぼくの周りでは紫藤めるが出てからは面白いという声が多く聞かれましたがこのような背景によるものでしょう。
相互不理解へのアプローチ
しかしながら相互不理解の描写などというものはもはや手垢のついたテーマであることは否めません。プリチャンに特有なのは相互不理解へのアプローチです。相互不理解に折り合いをつける方法というのは作品によって様々ですが、プリチャンの場合それは「対話」でした。最もリアルな選択肢ではありますがこれを徹底するのは非常に難しいことです。「対話」に論理的な矛盾が生じれば物語全体の魅力が大きく損なわれます。特にプリチャンのようなダイナミズムのない物語であれば致命的です。(これに関しては逆説的に「対話」の徹底がダイナミズムを奪ったと見ることもできますが。)それでもあえて「対話」を徹底したことがプリチャンのリアリズムの真骨頂であると感じました。
プリチャン世界の構造
プリチャンが「対話」を選んだ、あるいは選ばざるを得なかった理由はプリチャン世界の構造に着目することで理解することが出来ます。プリチャンは「地に足のついた」物語であれという要請のもと、ファンタジー色が大幅に削がれることとなりました。(少なくとも初期は。)これによって生じたのが絶対的価値観の消失です。これは「法」の不在と言い換えることもできます。このためプリチャン世界においてプリチャン配信、ライブは「法」の執行官になり得ません。
もし、これらが「法」の執行官たり得たら配信対決、ライブ対決が「対話」にとって代わるコミュニケーションとなったでしょう。つまり、バトル漫画的文脈の誕生です。ある種の暴力性を伴ったコミュニケーション、「拳で語り合う」という表現が最も近いかもしれません。しかし、プリチャンはそうではありませんでした。配信、ライブには人知を超えた力はありません。振り上げるべき拳が存在しないのです。
事実、先に挙げた第24話、第40話についてもキャラクターの相互不理解は地道な「対話」によって折り合いをつけます。メタ的に見ればライブシーンまでにストーリーは着地しているわけです。そこにプリチャンの介在する余地はありません。プリチャン世界におけるプリチャンは大団円の余興であり単なるエンターテインメントであると言えます。
アンジュ引退騒動
その中で唯一バトル漫画的文脈が見え隠れしたエピソードがありました。同時にプリチャン1期において描かれた無二の長編でもあります。それは白鳥アンジュ引退騒動です。詳細は省略しますが白鳥アンジュはミラクルスターに敗北したことにより心変わりし、引退を撤回しました。これは一見すると非常にバトル漫画的です。しかし、敗北後の彼女の反応に着目するとそうとは言い切れないのです。彼女はミラクルスターに敗北した悔しさから引退を撤回しました。これが意味するのは敗者に主体が存在するということです。「拳で語り合う」というコミュニケーション様式は(その中で双方に一定の納得があるにせよ)基本的には勝者が主体となります。極端な言い方をすれば敗者は勝者のイデオロギーの奴隷となるわけです。それに対して白鳥アンジュは自らが主体として引退を撤回しました。このエピソードに関して客体と化したアンジュが主体を取り戻すという解釈を拝見しましたがまさに我が意を得たりという思いでした。
まとめ
そういうわけでプリチャンのリアリズムに関して稚拙ではありますが考察を交えつつの感想でした。「法」の不在からか力強さにかける印象はありましたが、「対話」の徹底という困難なチャレンジは意欲的だったと思います。それが「地に足のついた」生々しいリアリズムを生んだのでしょう。冒頭に個々のエピソードが紡いでいるのは大きな景色ではないという表現をしました。しかし、それではちゃめちゃに破綻しているというわけではありません。むしろ緻密なディテールを丁寧に紡いだパッチワークのような作品だと感じました。
最後に
何度も言うように非常に難解なアニメでした。何度か見直した回もありますが実際のところ見落としているポイントは無数にありそうです。解釈についても全く自信はないので異論反論等ございましたらコメント欄かTwitterに送っていただけると幸いです。
2期はさらに面白いという話をよく聞くので視聴が楽しみです。完走したらまた感想を書くと思うのでその時はまたお付き合いいただけると嬉しいです。
折り返し
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今って、健康寿命とか考えると、人生の折り返し地点って大体30歳すぎなんですよ。で、ポイントなのが折り返しって言葉。マラソンとか思い浮かべてもらえればわかると思うんですけど折り返し地点すぎたら同じ道を引き返してくるわけじゃないですか。人生も同じなんです。つまり人生の折り返し地点である30代までに何をしたかでその後の人生が全部決まっちゃうんです。