完成してしまっているという感覚と老いの始まり

 インプットができない。ここ数年ずっと言い続けていることだけれど、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、アニメを見たり、マンガを読んだりすることができない。慢性的な億劫さが日々を覆っていて、元来の性格以上にこの傾向が年々強くなっている。

 創作物、に限らず現実にも、触れる度に心が摩耗していく。精神的に病んでいるというような難しい話でなく、単純にストレスなのだ。もう変化を望んでいない。完成しているのだ。

 以前はそうではなかった。子供時代は常に物語に飢えていた。知らない世界に心躍った。でも、もうそうではないのだ。子供の脳はスポンジのようになんでも吸収するなんて言い回しがある。では、もうこれ以上液体を吸えなくなったスポンジは?それで完成だ。今まさに俺は完成している。

 これは俺が完全無欠であることを意味しない。むしろ平均的な人間に比べたら欠けている部分が多すぎる。ただ、完成してしまっているという感覚があるだけだ。

 もう今は何を見ても、聴いても、今あるものだけで感想を組み立てている。ただ小手先でこねくりまわしたことをわかった風に並べることしかできない。本当にただ受け入れるということは久しく、ない。

 それなのに、ハイカロリーなのだ。インプットは。なにかを見たとき、聴いたとき、常に正解を探している。外ではなく内に。無意識的に組み立てた「正解」をまたこねくり回して正当化するだけの自己満足を、もはや自分の意思とは無関係に行ってしまう。

 本当に気分が悪くなってきたので終わりにする。これしかできない。